【後編】自然経験こそ、最上の教育|大切なことは山が教えてくれた|株式会社ヤマップCEO春山慶彦
この記事は、2021年10月30日〜31日に開催された「森のようちえん全国交流フォーラム in 奈良」にて、株式会社ヤマップCEOの春山慶彦が行った講演を記事化したものです。
本講演では、自然教育に携わる教育者の方々を前に、今という時代・社会の捉え方、これからの企業のあり方、私たちはどう生きるか、そして未来を担う子どもたちについてなどが語られました。クローズドなイベントだったにも関わらず、参加者から大きな反響があったため、より多くの方に届けるためにも、主催者に許可をいただいた上でnoteで記事化する運びとなりました。
講演を聴いているような気持ちで、ぜひご覧ください。
前編はこちら
人と自然をつなげる仕事
私はYAMAPという登山アプリの事業を手がけています。現在、YAMAPアプリのダウンロード数は270万(講演当時。2022年8月11日時点で320万)を超えて、国内ではシェアNo.1の登山アプリになっています。YAMAPの特徴は、スマートフォンの電波が届かない山の中でも自分の現在位置がわかる機能と、「この登山道は荒れていて危ないよ」とか「今、ススキがきれいだよ」といった山に関する情報を、登山者同士でシェアできるコミュニティ機能を兼ね備えている点です。
YAMAPは登山・アウトドアをビジネスの土俵にしています。そもそも、なぜ登山・アウトドアをビジネスの土俵に選んだのか。そこには、私なりの現代社会への課題感があります。
写真家の星野道夫さん、神話学者のジョセフ・キャンベルさん、民俗学者の宮本常一さん、生態学者の今西錦司さん、解剖学者の養老孟司さん。そういった方々の著作を読んだり、自ら山に入ったりする中で、現代社会の最大の課題は「身体を使っていないことに尽きる」と思うようになりました。その背景には、都市化が進み過ぎて、自然とのつながり、私たち人類もまた自然の一部であるという"当たり前の"認識がなくなりつつあることが関係している。そう考えています。
今後も、都市化は進んでいくと思います。ただ、都市化のゆり戻しとして、人々の自然回帰も同時に進むだろうと予測しました。都市化社会では人間の身体性は抑え込まれてしまっている。その反動で、身体を動かしたり、自然を求めたりするニーズが今後高まっていくだろう。なぜなら、私たちの身体もまた自然そのものだから。実際、コロナ禍以降、自然を求める傾向は顕著になっています。
今の日本では、生業として自然と関わる人は少なくなっています。農業・林業・漁業といった一次産業に従事している人は、就労人口の約3%、約300万人もいない。また、一次産業を仕事としてやるには、土地や技術の課題があり、ハードルが高い。楽しいとか、ワクワクするとか、ポジティブな回路で都市と自然をつなげられないかと考えたとき、登山・アウトドアには大きな可能性があると思ったんです。
今、日本の登山人口は約700万人と言われています。これだけ自然が豊かな場所に暮らしていながら、人口の1割も山に登っていない、山と親しんでいないのは、もったいないと思います。私たちの身体も自然の一部です。なので、本来、山で遊び、自然の中で時間を過ごすのは、楽しいはずなんです。山に関わる人、山で遊ぶ人の数を約3000万人、人口の4人に1人くらいにまで増やしていきたい。山で遊ぶ人が増えることで、山が豊かになる仕組みをつくっていきたい。そう思い、起業しました。
環境論と幸福論はセットで考える
最近、気づいたことがあるんです。気づいたとき、とてもワクワクしたので、みなさんにも共有したいと思います。何かというと「環境と幸福について」です。
今、環境問題や気候危機が、人類の大きなテーマになっています。それと同時に、ウェルビーイングといった言葉や、幸福論に関する書籍を見かけることが増えました。どうして環境と幸福の話が同時期に取り上げられているのか、私はわからなかったんです。ずっと不思議だった。最近になってそれがわかったんです。
なぜ今、環境と幸福の話が、同時期に議論されているのか?どちらも本質的には同じ問題だからです。そう考えると理解しやすくなる。つまり、環境の話は人類の幸福論の話でもあるととらえた方がわかりやすいし、整理がしやすい。
私たちは今どんな世界に生きているでしょうか。ここ数十年、気候変動などで人類を取り巻く環境が激変しています。また、現在のマネー資本主義を続けていけば、人にも地球にも未来はないと感じている人たちも多くなっている。こういった背景から、生き方や幸福について改めて考え、更新していきましょう。そういう状況なんだと思います。
これから私たちがどう生きるか、人類の幸福について考えを深めるためには、環境そのものの捉え方を整理しなければいけません。今までの環境論は、環境と人間を分ける考え方が強かったように思います。
でも、生態系の視点から見てみれば、環境の中に人類がいて、その人類の中に自分の命がある。こういう環境観を持てるかどうかが、環境を考
える上でも、人類の幸福や生き方を考える上でも鍵になると思います。
数学者の岡潔さんは、この視点を「宇宙樹」という言葉で表現しています。宇宙という大きな木があって、そこに地球という幹があり、生物という枝の、人類という小枝の先に、自分の命という葉っぱがある。(岡さんの「宇宙樹」に関する話は、『数学する人生』の本に掲載されています。とてもいい本です。興味があればぜひ読んでみてください。)
1970年代当時は、ヤンキーが社会現象となり、学校は荒れていて、校舎のガラスが割られるような時代だったそうです。その時代の若者たちを憂いて、岡さんは宇宙樹の話をしました。若い人たちを見ていると、自分の命を葉っぱでしか捉えていない。つながりで自分の命を捉えていない。それでは息苦しくて当然だ、と。
一人ひとりの命ははどこから来ているのか。先祖でもいい、環境でもいい、他の生物とのつながりの中で、今ここに自分はいる。命はつながっいて、そのつながりを感じることがいかに大事かを岡さんは語っています。
自分たちの命を個で捉えていてはダメだと私も思います。近代的な教育は、自我や個性、知識教育ばかりです。他者性やいのちの全体性を経験する感性教育には、ほとんど重きが置かれていない。特に日本は戦争に負け、自分たちが培ってきた価値観を否定しないといけなかった。宗教は解体され、祈りも伝統も形骸化してしまった。親の世代、祖父母の世代を尊敬することがしにくい社会になった。岡さんの宇宙樹のたとえで言うと、葉っぱ単体で生きざるをえない状況があった。ただ、戦後76年が経ち、もう一度、枝や幹、木の全体性を捉えて、つながりを通して自分の命を感じ、考えることが重要になっている。
ウェルビーイングの概念を含めこれまでの幸福論は、極めて西洋的な価値観に寄りすぎていると私は思います。個人的かつ短期的で、自分の命だけで幸福を考える傾向が強かった。また、物質的な豊かさに重きを置く価値観も強い。その幸福観では、東洋、あるいは日本的風土に暮らす私たちは幸せになりづらいのではなないか。幸福観は、その土地の風土や環境に依存する部分があります。なので、それぞれの風土に合った幸福観をつくっていくことが大切になる。環境とセットで幸福について考えないといけない背景には、こういった理由があります。
では、日本的風土では、どのような幸福観がよいのか。そこを考えてみたいと思います。
日本的風土に根差した幸福論を
日本人は仕組み化したり、発信したりするのが苦手です。ウェルビーイングやSDGsなど西洋から持ち込まれた概念に引っ張られて、それを自分たちに無理に当てはめようとするから、いつまでたっても借り物の概念のままで、根づかない。でも、日本にも参考になる幸福論はあるんです。例えば、江戸時代に書かれた貝原益軒の『養生訓』。
貝原益軒は幸せに生きることを「徳を積む」と表現しています。彼の言う「徳」は、今の私たちがイメージする「徳」とはだいぶ異なっています。養生訓の中に「人の体は父母をもととし、天地をはじめとしたものである」「私のもののようであるが、決して私だけのものではない。慎んでよく養い、いためたりこわしたりしないで、天寿を長くたもつようにしなければいけない」とあります。この言葉を読むだけでも、命をつながりで捉えていることがわかります。
「徳を積む」とは、「善いことしましょう」という小さい話ではないいんです。自分の命と他者の命はつながっていて、それは天地ともつながっている。だから、自分の命がときめくことは、他者の命も、天地をもよろこばせることなんだ、というつながりを含んだ生命観です。これが、貝原益軒の言う「徳を積む」です。これは今でいう幸福論でもあります。みなさん、どうです? とてもワクワクしませんか?
こう考えたらいいと私は思っています。命がときめいているのであれば、それは徳を積んでいるんです。自分の命がときめくということは、命を与えてくれた両親や周りの人たち、環境そのもの、宇宙そのもががときめいている。それぐらい広く深く考えていい。こう考えると幸福論と環境の話はつながってきます。
また、養生訓の中には「よく生きるとはどういうことか」が書かれてあります。心身を整えること、健康であること、笑顔でいること、命がときめいていること。これは幸福の話だけでなく、環境の話でもあるんです。自分がよろこんでいたら人類もよろこんでいて、同時に環境もよろこんでいる。それくらいに、自分の命を拡張して考えていいと私は思います。だからこそ、人が幸せに生きることと、環境が豊かになることはつなげていかなければならないし、本来はつながっていたはずなんです。繰り返しになりますが、やはり、環境の話は幸福論とセットに考えた方がわかりやすいし、整理できる気がするんです。
子どもたちに「地球にとって人間が一番の害。人間っていない方がいいんじゃない?」と質問されたら、みなさんはどう答えますか。今の不幸の原点はここにあると私は思います。つまり、人間がいることで環境が悪くなってしまっている。ここに生きにくさというか、不幸の原因があります。
でも、貝原益軒の幸福論では、自分が幸せになる、周りが幸せになる、社会が良くなる、環境も豊かになっていく。これを「徳を積む」として、生き方を説いている。
人が幸せになり、環境も豊かになる仕事や社会をつくれるか。つくることができれば、生きること自体が肯定され、人類は種として地球にいていい状態になる。ここにこそ、希望があります。
人の手が入ることで自然が豊かになり、環境とともに私たちも豊かになる仕事をどうつくるか。自分、他者、環境、この3点が重なる真ん中をとらえた仕事をつくる。これが徳を積むことであり、希望そのものになると思っています。
人も自然も豊かになっていく仕組みを
YAMAPは登山・アウトドアをビジネスの土俵にしています。登山者が山に入ることで山がもっと豊かになる仕組みがつくれないか、ずっと考えてきました。いろいろ調べて「これは参考になる!」と思ったのが、奈良県の吉野詣です。吉野は桜の名所として知られています。どうして吉野が桜の名所になったか、ご存知の方はいますか?
吉野のご神木は桜です。昔の参拝者は、桜の苗木を持って吉野にお参りをし、あわせて桜の苗木を植えるという風習があったそうです。だから吉野は桜の名所になった。つまり、吉野詣では、山に行くことと山を美しくすることがセットになっていて、それを"祈りの行為"としている。初めてこの仕組みを知ったとき、考えた人はすごいなと感動しました。
吉野詣に限らず、人間と自然がともに豊かになる仕組みがあるんだと思います。日本の里山、里海もそういった仕組みの一つです。里山は極めて日本的な風景ですが、人の手が入ることで生態系が豊かになって、人間の暮らしもよくなる。里海も牡蠣の養殖も、そんな仕組みの好例です。、明治神宮の森は人の手でつくられた森ですが、大都会にこんなに豊かな森がある場所は、珍しいと思います。
風景に関して、南方熊楠さんがすごく大事なことを言っているので、紹介しますね。「風景は我が国の曼荼羅ならん。風景ほど実に人の世に有用なるものは少なしと知るべし」と。私たちは、風景をそのように見れているでしょうか。美しい風景は、飾りじゃないんです。私たちそのものであり、私たちの智恵と命の源泉なんです。
もう一つの大事な視点があります。宮沢賢治さんの言葉です。「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」。こうした全体性の視点は、ウェルビーイングを含め現代の幸福論にはあまり入っていない気がします。
南方熊楠さんや宮沢賢治さんのこの視点こそ、人類の幸福と地球環境の豊かさを両立するための、道しるべになる考え方だと私は思います。何度も言って恐縮ですが、環境の話は人類の幸福論の話です。だから、人が幸せに生きることと環境が豊かになることをもっと近づけて考え、生き、仕事をしていかないといけない。それが「徳を積む」ことでもあるんです。
自然経験こそ最上の教育
今までの話を踏まえて、自然経験こそ最上の教育だと思うんです。なぜかというと、「知性の核心は知覚にある」からです。興味のある方は、安宅和人さんの論文『知性の核心は知覚にある』の論文(2017年10月号ハーバードビジネスレビュー所収)を読んでみてください。その中の理論に則って知性がどう構成されているか簡単に案内すると、以下のようになります。
知性には、まず感覚を通した知覚がある。その次に思考(知識)があって、行動がある。今の教育は、思考(知識)を詰め込むことで行動を起こそうとする、あるいは思考(知識)だけを教える教育が多い。ただ、忘れてはいけないのは、思考の前には知覚がある。知覚とは、自分を取り巻く世界をどう感じるか。知覚、つまり感覚、感性、五感で世界をとらえること、既存の思考と統合しながら解釈すること。そこに知性の核心がある。
難しく聞こえるかもしれませんが、要は、何を見、何を感じるかが知性の原点だということです。豊かで優れた知覚能力(感覚・感性)がなければ、知性的な思考や行動もない。
この知性、特に、知覚を磨く最適な場所が自然であり、外です。環境が変化している今の時代に、人間が人間からしか学んでないことはリスクでしかない。教室という場所には人間しかいない。単一種しか存在しない箱です。それは、生態系から見たとき、異常な空間です。一方、外に出れば人間社会より大きな自然環境がある。自然の中では、人間がつくった法律やルールとは関係なく、いろんなことが起きてる。私たちがまず向き合うべきは、人間の外です。対峙すべきもの、知覚すべきものは自然です。これから教育をどう自然へ開いていくか。自然の中で、感覚・感性を含めた知覚をどう磨いていくか。ここが非常に重要です。
身体での自然経験を通してわかること
地球環境が悪くなっている問題の核心は、人間と環境の関係の貧しさにあります。その関係の貧しさの結果として、二酸化炭素の排出、地球温暖化がある。つまり、風土と自分の命の関係性が希薄だから、風土に対する感度が鈍り、有害物質をそのまま垂れ流すようなことをやってしまう。風土と自分の命がつながっていることを実感していれば、そんなことはできないはずです。重要なのは人間と環境の関係性なんです。これを概念ではなく、知覚や身体を通してわかるために、自然経験が大事だと私は思います。
感覚・感性が外に向かって開かれていれば、南方熊楠さんの話や、宮沢賢治さんの話、貝原益軒さんの話、岡潔さんの宇宙樹の話も、どれも自分の感覚・感性を通してわかるはずなんです。知識としてではなく、実体験として。自分の身体でこの理解があるのとないのでは、思考や知識、行動のアウトプットがまったく変わってきます。
感覚を研ぎ澄ますためには身体が大事です。感覚をどう磨いていくか。自分の身体は、世界を知覚し受けとめるひとつの受容体(メディア)でもあります。だからこそ、自分の身体がイキイキしていることが知覚を磨く原点です。登山やアウトドア、ヨガでもサウナでもいいから、身体の感性を磨くことにもっと時間と意識を傾けた方がいい。
では、何からはじめればいいのか? 衣食住。これが人間の原点です。まずは、この生きる原点を、自分で取り戻すことからはじめてみる。全部人任せにせず、当事者になる。まず一度は自分でやってみる。やってみて、自分で続けたいと思ったらやり続けてみる。衣食住、人間の生きる原点を人任せにしちゃうと、生きる意味や、生きるワクワク感が、自分の命からどんどん減っていってしまいます。
食べ物を自分で育てたり、自分で獣や魚をさばいたり、料理したり…。ぬか床や味噌のような発酵食品をつくってみたり。もしくは、犬や猫など人間以外の生物と暮らしたり、音楽を奏でたり、歌ったりも、すごくいいと思います。こういう人間の原点というか基本的な営みを積み重ねていけば、感覚、感性が研ぎ澄まされる。みんなが当たり前に思っていることが、実は何よりもかけがえのない行為なんだと気づく。ここに知覚を磨くヒントがあります。
自然こそが最高の教室
最近『森と長靴と牡蠣』というNHKのドキュメンタリー番組を見ました。気仙沼で牡蠣の養殖をしている畠山重篤さんの特集でした。その映像の中で、畠山さんが孫のカンタくんと一緒に自然に入っていくシーンがありました。二人の自然への向き合い方が美しく、印象に残りました。
畠山さんとカンタ君は森に入って川で魚を捕るために、一緒に川を見ているんです。別の場面では、牡蠣の養殖をしているイカダの下に魚が寄ってくるので、イカダの上から魚が釣れるかなと一緒に覗き込んでいる。教室での向き合い方と自然での向き合い方には、大きな違いがあります。何かというと、人と人が対峙するのではなく、自然に対して一緒に並んでいるんです。魚が釣れたときも、教えるというよりも一緒に喜んでいる。ここに学びの原点がある。
でも、学校の教室では、基本、教師と生徒が、1対nで対峙してますよね。畠山さんとカンタ君は、自然に対して一緒に向き合い、互いに感じたことやよろこびを共有しあっている。向き合い方が全然違うんです。また、自然の中であれば人間が何も言わなくても場は動いていく。教えるのは人間じゃなくて自然。自然や環境の変化の中から感じ取り、自分を合わせていく。これが自然教育の原点です。これが、答えのない現代を生きる私たちにとって、自然こそが最高の教室だと思う理由です。
あと、自分の命が祝福されている実感が得られることも、自然経験の大事な点です。役に立つかどうかではなく、存在として自分はここにいていいんだという実感が自然経験を通して得られる。生まれてきたことに感謝し、二度とない人生の奇跡性を感じる瞬間が、自然経験の中にある。
こういった命の原初的な感覚は、生きることを尊いものにしてくれます。自分はここにいていいんだと思えるかどうか。親や周りの人に愛されているかどうか。自分の命よりも大事な人がいるかどうか。誰かを愛した経験があるかどうか。この原初的な感覚が生まれるにはいろんな要素が絡んでいますが、その中でも自然経験と、自然経験を通じた人間関係が非常に重要だと私は思います。
なので、学ぶ場、教育の場を自然や外へ解放していったらいいと思います。公教育に関しても、自然をいかに学びの中に取り入れるかというのは、重要なテーマです。自然経験を通して、宇宙樹の感覚とか、自分の命が自然に包まれているといったような原初的な感覚が、身体でわかるからです。ここが私たち人間の知性を育む原点であり、自然教育、森のようちえんの意義なんだと思います。
私たちは、答えのない時代、情報が溢れて過ぎている時代を生きています。その中で自分が何を感じ、その上でどういう問いを立てるか。問いに対する応えとし、表現をしたり、事業をつくっていく。そういう時代に求められる教室はコンクリートの箱ではないと思います。自然こそが、最高の教室であり、自然経験こそが、最上の教育だと私は信じています。
長時間ご清聴いただき、ありがとうございました。
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