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山小屋と国立公園の問題の根底にある、日本社会の“自然”との向き合い方 - 雲ノ平山荘オーナー・伊藤二朗さんインタビュー

2019年の夏、雲ノ平山荘の伊藤二朗さんの記事が、登山業界に衝撃を与えました。

それは、山小屋へのヘリコプターでの荷揚げにおける危機的な状況に端を発し、山小屋の存在意義や日本の国立公園と登山文化の存続についてまで踏み込んだ内容で、多くの関係者が危機意識を持ったかと思います。

YAMAPではこれを受けて、2019年8月末にYAMAP代表の春山さんとアウトドアライターの高橋庄太郎さんとで、雲ノ平山荘を経営する伊藤二朗さん、三俣山荘と水晶小屋を経営する伊藤圭さんのお二人にお話を伺ってきました。

本記事は、雲ノ平山荘を経営する伊藤二朗さんへのインタビューです。

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伊藤二朗さん(写真中央)
雲ノ平山荘の経営者。父は『黒部の山賊』の著者でも知られる伊藤正一さん。兄は三俣山荘と水晶小屋を経営する伊藤圭さん。最後の秘境と言われる雲ノ平で魅力的な山小屋づくりをしつつ、山小屋の存続や日本の国立公園に関する問題提起を続けている。
高橋庄太郎さん(写真左)
国内外の山を歩いて取材を重ねる山岳/アウトドアライター。北アルプスの登山道をほぼ知り尽くしており、三俣山荘とは伊藤圭さんの父・伊藤正一さんの時代から親交があった。山小屋でしか手に入らなくなっていた『黒部の山賊』の再出版に尽力し、巻末の解説文も担当している。著書に『北アルプス テントを背中に山の旅へ』など。
雲ノ平 / 三俣 / 水晶(黒部源流域)
黒部川の源流を含む北アルプスの深部。その奥深さから雲ノ平は「最後の秘境」と称されています。二朗さんと圭さんは、このエリアを戦後に開拓した伊藤正一さんのご子息。黒部源流の開拓史は非常に興味深いものです。正一さんが書いた『黒部の山賊』という本をぜひ読んでみてください。

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なぜ、あの記事を出すことになったのか


春山:まずは、例の記事を書いた背景をお聞きしてもよろしいでしょうか。

二朗:今回の記事の話は、急に顕在化した部分はもちろんありますが、記事でも触れているように、ずっと昔から続く国立公園の問題でもあります。その中でも特にヘリの問題が急務になったのは2011年の震災以降です。背景には産業のパワーバランスの変化にあると思っています。

春山:東日本の震災以降なのですね。

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二朗震災以降、電力事業の構図が大きく変わりつつあります。電力事業のヘリ需要が急増した結果、ヘリ業界における仕事の大半を占めるようになったんですね。確かに、財源豊富な電力会社と民間の山小屋とで比べたら、当然電力会社の方がお金がありますし、ヘリ業界からしても魅力的な仕事に映るはずです。

また、日本の航空局の厳しさも今回の要因の一つだと思います。日本のルールはアクシデントに対してのペナルティが国際的にも重く、ちょっとした事故でも業務が滞ってしまうらしいです。そう考えると、山小屋への運搬はリスクが高い。

結局、数社あったヘリコプター会社の多くが、ここ数年間で山小屋への運搬から撤退へと舵を切りました。現状は東邦航空という会社が八割方を回している状況ですね。一方、山小屋はヘリに依存している業態になっている。この構造自体すごく危険です。

春山:なぜあのタイミングだったのでしょうか?

二朗今年の6月末くらいに、東邦航空のヘリ2機が故障してしまって、2週間ぐらいヘリが飛べなくなってしまったんです。時期的に登山客が多いタイミングと悪天候が重なってしまい、にっちもさっちもいかなくなりました。

この問題はそのうち爆発すると思っていたし、そろそろ発信するタイミングかなと思った次第です。

春山:雲ノ平や三俣山荘は輸送が滞ってしまったと思うのですが、北アルプス全体で輸送が止まってしまったという認識でいいでしょうか。

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二朗そうですね。多くの場合、2週間ぐらい物資が来なかったみたいです。それがどのくらいのレベルで営業に影響が出たのかは全部はわからないですが。話を聞くと、北アルプスでは白馬周辺やうちの界隈の天気が極端に悪かったらしく、一番遅くまで影響をうけたみたいですね。


ヘリや国立公園の問題についての議論が始まらない理由

春山:今回の輸送の滞りを受けて、山小屋全体で輸送問題を改善していこうという動きはあるんですか?

二朗全体での動きはまだないですね。そもそも山小屋組合は、県にひとつかふたつあるんですけど、組合をまたいで意見を集約する仕組みがほとんどない。ゆえに組合の意見が社会に反映されることもないんです。

さらに、組合のアイデンティティーも相当バラバラだと思います。「自然環境」に対して価値観の主軸をおいているわけではなく、それぞれ「地域経済」ごとの集まりですからね。立山ならアルペンルートを中心とした経済圏、上高地なら上高地で独立した経済圏だったり、白馬だったらスキーリゾート的な経済圏ですよね。

春山:組合や業界の意見を集約して世に出すという方法もあると思うんですけど、組合が形骸化していたり価値観もバラバラなので、今回の場合は二朗さんが声を上げて問題提起をしたということですね。

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二朗特定のグループの中で意見が消費されてしまうよりは、登山者や同業者に向けて、あるいはそれに関わらず一般の人たちに向けてオープンに発信するのはいいかなと思っています。

春山:環境省や行政の反応はどうでしょうか?

二朗表立って話していることはないですね。

春山:「聞かせてほしい」とか「こういうアクションにしませんか」とかも、ないのでしょうか。

二朗ないですね。彼らも今行っている業務の範疇外でアクションを起こす体力はないと思います。

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二朗先ほど、山小屋組合の意見を集約する機会がないと言いましたが、実は1年に1回行われる長野・岐阜・富山の三県山小屋総会で、まとまった意見とまではいかずとも、山小屋や登山業界が抱えている問題を環境省の人にぶつける機会はあるんです。ただ、そこで的確に答えられる人や調査能力を持ち合わせている人材はほとんどいない。

これにも理由があって、つまるところ環境省の担当者が入れ替わりすぎて、経験値が蓄積していかない。記録も、記憶も、思い出も蓄積しない。問題解決能力とかを問う以前の問題です。要するに当事者といえる人がいない。

春山:そこは本当に大きいですよね。

二朗大きすぎますよ。環境書の現場の担当官が、中部山岳国立公園全域で5人ぐらいしかいなくて、彼らも数年で入れ替わっていくから、話をしても2年でリセットされ、また同じ話をしての繰り返しです。

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二朗例えばですけど、僕は東京農業大学と登山道周辺の荒廃地の再生に関する研究のようなことをやっていて、その中で定期的に行政官も巻き込んで現地検討会というものをやっています。そのメンバーには富山県や富山市の役人、林野庁・環境省の行政官もいるんですが、10人ぐらい出席者がいたとしても3年経てば誰もいなくなりますよ。10人いたはずなのに、3年経つとみんな「はじめまして」になる。

春山:その場合、行政に残ってほしいという申請はできないんですか?

二朗できないです。

春山:通常の公務員であれば、長くいると汚職があるとか、人間関係が強くなりすぎるといった理由がありますよね。でも、自然は2年でも10年でも変わらないもの。公務員制度を自然の分野にあてはめること自体が無理があると思います。本来当事者である環境省から、そういった声が出ないですかね。

二朗レンジャーもそうなんですけど、組織構造が完全にトップダウンで、下から上に意見が上がるような仕組みにはなかなか見えないですね。

春山:今まで二朗さんがお会いした中で、同じ問題意識を共有していた人とかはいますか?

二朗いますよ。でも、その問題意識を公表することを本人が嫌がる。構造的な問題があっても、彼らは必要な批判も基本的にできないと思います。あるいは内部ではしているかもしれないですが、それを世に問うということは、慣習的に裏切り行為と見なされるのではないでしょうか。


風景の翻訳者たる、レンジャーやガイドの不足

春山:山小屋や国立公園もそうなんですけど、僕が日本の自然で一番もったいないと思っていることは、レンジャーやガイドが少ないということです。

「この山はなぜこういう名前になっているのか」とか、『黒部の山賊』の本じゃないですけど「この地域にはこんな物語があって、過去にはこういう人が住んでいた」ということを知ると、山の見方が変わりますよね。そうすると、スポーツとは違う登山ならではの楽しさを感じることができる。そういう意味で、レンジャーやガイドの役割って、風景の翻訳者だと思うんです。

二朗そうですね。

春山:風景を翻訳する人がいないと、その良さや固有の歴史はなかなか伝わらない。「ガイド業だけでは生計を立てられない」とか「アメリカではレンジャーは憧れの職業なのに日本ではそうではない」という現状を変えていきたいですね。ガイドやレンジャーが活躍する場を、いろんな課題があるにしても、つくっていく必要があると思います。

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春山:今回の二朗さんの話をうけて、現場でそれぞれの人が抱える思いや課題感があると思うんです。そういったものを解放して議論し、社会に実装していく場をつくりたいですね。

二朗だからこそ、インターネット空間が議論の最初のきっかけになったってことは必然かもしれないし、きっかけとしてはいいんじゃないですかね。みんな責任なんて考えずに、意見を持つことからしかできないんだから。

レンジャーが人気かどうかという話ではないですが、山小屋のアルバイトの人たちを見ていると、みんな自然が好きなのに日本には自然に関わる仕事自体がないように思えます。アウトドアショップか山小屋、山から降りたときはスキー場みたいな感じです。

本質的に、自然に対する好奇心や向学心を満たす職業がないんですね。NPOや自然保護団体も存在しますが、社会的影響力を持っている組織はほとんどない。経済活動として成立しているところも少ないですよね。


インターネットと自然の関係

春山:二朗さんが以前書かれていた雑誌『PEAKS』の記事の最後に「情報化後初めての登山ブームがきた」とありました。これについて、もう少し聞かせていただいてもいいですか?

インターネットによって個人が意見を発表しやすくなり、それが社会に浸透しうる時代。文化や情報格差でギャップが生まれていたものを少なくすることがインターネットの最も得意とするところだと思うんですけど、そういったものに何か期待されているのでしょうか?

二朗僕の文脈はちょっと違っていて、デジタル世代っていうのは引きこもりを多く生み出しやすい世代でもあるし、現実がバーチャルに侵食されやすい世代でもあると思うんです。だからこそ、現代のテクノロジーや経済に、人間として明確に限界を感じ始める時代なんじゃないかなと。その反動として、自然というものがみんなに必要になってくると思うんですよね。

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二朗野生であったり、自然であったり、自分が人間として生きている感覚を取り戻すという行為がとても必要になってくるのではないかと。そういう意味で、これからはもっと真剣に自然の存在って何なのかと考える動機が存在していると思うんですよね、今までより。

春山:非常に共感します。AIなどによって人間の単純作業が自動化され、余暇が増えると言われていますよね。そのとき、「人間にとって遊びとは何なのか」という問いが生まれ、自然の中で体を動かすことが、今の登山とは違うレイヤーで捉え直されるのではないかと思っています。「大きな自然と僕らの身体」とか「場所や風景」というものを、もう一度見直し、その価値って何だっけと考えざるをえないタイミングが来るのかなと思っています。

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二朗昔って、悶々とした気持ちになったり、新しい展開が欲しくなったら、家から外に出るしかなかったですよね。音楽を聞きに行ったり、友達と飲んだり、あるいは旅をしたり、それしかすることがなかった。

今はそれがインターネットというパンドラの箱、ブラックボックスで暇をつぶせてしまう。

悩んで、煮詰まることで、自分のアイデンティティがなんとなく芽を出してくるじゃないですか。自分の中の抽象的な暗がりと向き合うことによって、一体自分は何が欲しいんだろう、恋愛したりとか、意見を言いたいとか、こういうものづくりがしたいとか。それってインターネットの中じゃなくて自分の中にあるものですよね。

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二朗それが、今の時代だとパッケージ化された情報としてあって、「あるものから選ぶ」プロセスになっているように見える。情報として“よく”見えてしまう。基本的に自分の能力と因果関係を無視して情報を見ると、写真家も素敵だし、登山ガイドも素敵だし、冒険家も素敵なんだけれど、重要なのは自分の能力と向き合って、その能力と社会をどう因果関係に結びつけていくかですよね。その文脈なしに、よく見えるようなものに手を出し続けて、空振り三振をしているような人がいっぱいいる気がします。

春山:僕も根本は全くそうだと思っています。情報化っていうのは、一言で言うと「同じ」ということ、表面的な言葉だけが流布するような状態、つまり意味の世界だと思うんです。意味に振り回されると、生きている実感とか、自分が何をしているときに心がときめくとか、そういうことに鈍感になってしまう。本来、生きることに意味はなくて、生きているっていう実感や経験が積み重なってはじめて、自分なりの意味を見い出せる。意味と経験の順番が逆転してしまっている。

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春山:その”頭でっかちの思考”を育むのが都市だと思っていて、「ああすればこうなる」社会を生きていると「ああしてもこうならない」という自然の中では何もできない。それを教えてくれたのが、3.11だったと思うんです。自分たちが生きている世界がいかに都市の論理では成り立たないかということですよね。そういう揺り戻しも、今来ているのではないかと思います。


“自然が必要である”というフィーリングの欠如

春山:今までの、これからの国立公園の意義、価値ってどんなふうに考えてらっしゃいますか?

二朗国立公園の価値は、今までは観光的な意味で「利用する、アクティビティとして遊ぶ」という文脈に偏っていたと思うんですけど、これからは学びの場としての役割を大きくしていくことが重要だと思います。

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二朗国立公園先進国と呼ばれるアメリカやヨーロッパの歴史のプロセスを見ると、最初に自然保護運動があるんです。産業革命の中で、日常生活の周辺の自然環境や景色が急激に失われていくことに対して、民衆が抵抗運動をしたのが始まりですね。その段階で「自然は必要なものだ」という共通認識をみんなが持ち始めて、最終的には「みんなで自然を守っていこう」という思想運動が社会制度に落とし込まれたと僕は理解しています。

“自然が必要”というフィーリングが大切なんだと思います。

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春山:日本では、国立公園の成り立ちや思想の部分が形骸化し続けているということでしょうね。

二朗そうですね。自分たちの生きていく世界には自然が必要だということを、生活の場で実践していく必要があると思います。それ自体は経済活動にはならないけど、人間が生きていく上で必要なものを守っていこうという単純な話ですよね。すごく単純は話なんだけど、その前置きが残念ながら日本にはないんですよね。

だから、自然が大事だということを学ぶ一つの形として、登山などのアウトドアがあり続けると思うんですよ。

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二朗世界的には登山というアクティビティと自然保護は両輪だと思うんですけど、日本の場合、登山ブームは起こったけど自然観が伴わなかった。そこから先は一過的な遊びのスタイルとしての継承になっちゃっている。根本的に「社会と自然がどう向き合っていくのか」という大きな考え方が存在していないので、世代をまたぐとコロコロとスタイルも変わっちゃうという状態ですよね。

春山:以前、二朗さんは「一個人、一世代の趣味の範疇で終始してしまって、連続性がないことがもったいない」と語られてましたね。

二朗結局、日本社会の全体的な弱さなのかなと僕は思っています。生活観とか宗教性とか美意識だとか、歌われる歌や景色に対する価値観もそうですけど、江戸時代以降20〜30年と同じ状態を保った時期ってないんじゃないかな。明治維新から大正デモクラシーから、ファシズム、戦後復興から高度成長期、バブルから今に至るまで、日常の価値観が目まぐるしく変わる中で、自然に対する価値観も場当たり的で流動的なものになってしまっていると感じます。


世界と比較した国立公園の管理方法について

高橋:僕から質問してもいいですか。国立公園って自然の破壊に関して法律で守られているじゃないですか。あれをもっと白黒つけて厳密に守るようにしたほうがいいのか、それともグレーゾーンを大きくして地域によって運営を変えたほうがいいのか。

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高橋:僕がよく通っている知床は国立公園であり世界自然遺産だけど、山中は登山道がない場所でもほとんどどこに入ってもよくて、シーカヤックなどの場合は海岸では焚き火もOKだったりで、ものすごく許されている範囲が広いんですよね。でも北アルプスとかって指定地にテントを張らないといけないし、焚き火はNGじゃないですか。

土地によってやり方は違うと思っていて、僕の意見だと厳密にやると失敗すると考えているのですが、二朗さんはどう思うのかなと。

二朗知床は地元の自然保護運動が発端で設立された自然保護団体があって、そこが公園の管理も担うことでうまく機能していると聞いています。知床のやり方はスキルとか経験則とか知識が求められる自己責任の世界、それはすごく理想的だと思うんですよね。そのためにはまず登山者が変わらなければならないし、ちゃんと知識とかマナーというか…倫理観、責任感かな。それらを両方進化させていかないといけないと思います。

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二朗僕も自然の中で過ごして一番感動するのは、名もなき原生林で藪こぎしているときに、ちょっと抜けたら巨大な木が現れた瞬間だったりするから、それをダメと言われると「どうすればいいんですか」ってなりますね。ただ、みんなでそれをやるとなると、今の登山者の責任感では難しい。だから、そこに至るまでにはどうしたらいいのかなって考えますね。

高橋:そうですね。

二朗国立公園の文脈でいうと、世界の国立公園には様々なタイプがあります。アメリカの国立公園は営造物公園といって、国の機関であるナショナルパークサービスが土地の所有までを一元化して、強大な権限を持っているんです。アクセスの管理や宿泊施設、道路までつくるし、文化財保護とか包括的な公園の管理計画も行う。あるいは、学術研究のコーディネートとかまでしちゃう。

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二朗アメリカのやり方は国立公園の中でも理想と言われているらしいんですけど、ヨーロッパや日本みたいに歴史が長く土地が狭い国だと、土地に対して複雑な権利体制が既にあって、土地の一括所有が行政にはできないという状況があります。

そこで生み出されたのが地域制という考え方ですね。土地の所有はしないけど、国立公園にふさわしい一定のエリアを指定して、その中に規制をかける仕組み。さらにゾーニングといって「ここは人間がつくった二次自然を守るべき」「ここは原性自然を守るべき」みたいに、規制を細かくしていくんです。

その中で、山岳団体、地主、住民、自然保護団体、学術機関、行政などの複数の権利者や組織を、お互いに相乗効果をもたらしあえるようにコーディネートできるかが、地域性の国立公園の一番のポイントだと思うんですよね。

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二朗ヨーロッパの強いところは、民衆から自然保護思想というのが出てきたということで、少なくとも「自然はちゃんと守っていこう」という共通認識が前提として存在していることです。あくまでもそのための方法論として、自然保護団体や行政、学術団体の考え方が違うという状態なので、対立を孕みながらも粘り強く話し合って、最終的にはビジョンを共有しながら役割分担をしようとなるんです。

関係者が経済的にも便益があるようになることも含めて、包括的な社会活動としてのコーディネートをしていくってことですよね。地域制公園は、地域の協働体制が成熟さえすれば、国立公園のあり方として理想像になり得ると思います。

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二朗一方、日本は肝心の「自然を守りましょう」という共通認識が脆弱なんで、環境省がイニシアティブをとれない。国立公園自体もあまり認識もされていないから、どう守りましょうかという議論自体が成立しないんですよね。どちらかというと、どう利用しましょうかという状態。持続可能な形で、自然も守りつつ経済活動もやりつつみたいな感じが上手な利用なんでしょうけど、今は場当たり的、短期的に儲けられるかという観光キャンペーンのようになっていると思います。

そして、環境省をはじめ、地方自治体や地主の林野庁とかNPOとか山小屋とかは本当に縦割りなんです。コンセプトを共有したり政策を調整するということがない。自然環境という単位を、社会の中でどう扱っていこうかという議論すら始まってない。

だから庄太郎さんが言っていたことはすごく本質的で、その本質の魅力を分かってもらうということは、今の北アルプスの状況では天国を想像するような次元ですね。もうね、みんなで勉強したいんですよ。

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春山:知ることから始めたいですね。議論とか判断するとか意見で戦うような状態じゃなくて、現状を知るとか歴史を知ったり、うまくいってる事例を机に並べる。その上で、一世代じゃなくて二代三代と遺していくためにはどのような制度をつくったらいいかを考える。そんな方向に持っていけるといいですよね。

二朗日本も国立公園の発足時はいろんな対立意見が出たらしいんですよね。主には観光政策として利用を促進する考え方と、サンクチュアリとして自然保護ありきだよって考え方。

後者は海外の国立公園を学んで、「自然環境は人類にとっては普遍的なもので、人間や社会のアイデンティティとしても重要なもののひとつだから厳格に守るべし」みたいなものだったらしいんです。ただ、日本人の苦手なところでもあるんですけど、その意見を体系的にまとめて組織的に利用してオーガナイズしていく活動に発展することができなかった。政治力がなく、一意見としてしか認識されなかったんですね。

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二朗社会の中でどう意見を実現させるかという経験則や仕組みがないことが、日本の民主主義の未熟さだと思うんですけど、今のいろんな社会活動を見ても、意見を組織としてオーガナイズすること自体ができないように見えます。これが一番根本にあると思っていて、意見はいつでも存在するんですけど、それを集約して機能させることができていない。

今回一番恐れているのは、僕が言っているだけという状態になることとですね。みなさんには、僕の意見なんてかき消すくらい派手で無鉄砲なことを言っていただきたいです。


入山料や規制に関する考え

春山:ヘリの問題は財源の問題だったりもすると思うんですけど、二朗さんは入山料についてどんな風に考えていますか?

二朗国立公園の持続性として必要だと思います。しかし本当に初歩的なところでつまずいていて、ほとんど議論が進んでいないという印象です。

春山:県ごとに義務化もされていなければ、スタンスも全然違うってことですよね。

二朗そうですね。例えば雲ノ平の最寄りの折立登山口などでも、ほとんど国立公園の利用者が来る場所なのに、道路の利用料として2,000円ほど徴収されることはあっても国立公園の入域料は存在していません。変な話ですよね。

高橋:規模が違うし比較しにくいけど、沖縄県の竹富島が入島料をとるようになったでしょう。あれも任意にはなっているけど(入山料も)やろうと思えばできないことはないですよね。山は広大だから方法は考えないといけないけど。

二朗こういう話題のときに理想的な形を提示することはできるんですが、「ほとんどの人が分かっていることをなぜできないのか」っていうことを考えることの方が全然大事だと思います。

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二朗で、なぜできないのかっていう理由を書き出したら10個でも100個でも書き出せるってくらい色々あるんですが、最も端的なところをいうと環境省は自分で徴収することを諦めたんです。

そして、数年前に地域自然資産法という法律を立ち上げたんです。自治体をベースにした協議会を作って、そこが入域料を徴収して自然環境の保護や整備に当てることができる、そういう制度をつくったんですけど、これも義務じゃなくて任意だし、運営指針が曖昧なんです。包括的なコンセプトが不在のまま各自に任せてしまうと、現状の縦割り構造でフィックスされてしまうのが既定路線ですよね。

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二朗例えば登山届の義務化といった話でも、岐阜県と長野県で罰金の有無が違うんですよ。岐阜県は取るけど長野県は取らない。長野県で入山して岐阜県で発覚したらどうなるんですかね。そして、両者とも取り締まる仕組みもない。

春山:登山届も、行政や自治体ごとにフォーマットがばらばらなのはおかしいですよね。

二朗地域制であるヨーロッパでは、地方ごとに温度差が生じてしまう仕組みはどんどん整理していって、国立公園という仕組みに落とし込んでいった歴史がありましたよね。そうじゃないとうまくいかないというのが、ヨーロッパの歴史では証明されているんですよね。

だから、地方の土地利用計画の上のレイヤーに、国立公園の管理計画がある。多様な主体が国立公園の管理計画をよくしようとする、協力してうまく機能するよう、いいスパイラルになるように、コーディネートしていく形をつくっていくんです。ヨーロッパは試行錯誤して苦しみながらその制度をつくってきたらしいんですけど、日本って逆なんですよ。中央が統括するっていうあり方を放棄し続けるって感じです。今起こっていることを冷静に見ると、すごい危険だと思います。

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高橋:最近自然保護という観点でおもしろなと思った事例は、奄美から沖縄へ世界遺産を目指したじゃないですか。でも実際に住民にアンケートをとったら半分以上が反対していた。自然遺産になるのを願う人ばかりではなく、あえて登録されないほうがいいという人が増えているんですね。これまでは世界遺産登録に反対する動きがあったとしても少数だった。それが今までと違うなと思ったんですよね。

二朗何をもって反対だったんですかね。

高橋:やっぱ世界遺産登録後に規制されそうなことが多いということで。漁業や農業のやり方を変えなくてはいけないかもしれないし、観光的には山中のトレイルに入る許可や人数制限を厳密に行なう必要が出てくる可能性もある。今まで通り自由にやれないくらいなら、世界遺産にならなくてもいいんじゃないかって。

二朗庄太郎さんの立場は?

高橋:僕も現地の反対派の人と同じで、世界遺産になればいいってもんじゃないと思うんですよね。世界遺産にならなくても環境はもともと守らねばならないものだし、登録することによって規制をかけたり、一部の人たちの決定で自由に遊べなくなるのが本当にいやなんです。そもそも規制をかけて自然の中に人が入らないようにして自然を守るという考え方が好きじゃない。自然の中に人を入れた上で自然を守るっていう方法を考えたい。

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二朗イギリスの国立公園の歴史は、最初から意見の対立が顕在化してるんですよね。

誰も土地に入れたくない地主に対して、フットパス運動といって自然環境を楽しむ権利があるから土地を通行することを強行するという主張があったり、開発事業者とナショナル・トラストの対立や、あるいは利用と保護を調和させる考え方と、生態系を完全保存する考え方との対立あったり。でも、その人たちが机の上に共通の話題を置いて、みんなで話をして妥協点を見つけた。

世の中いろんな人がいるので、とりあえず対立軸をはっきりさせないと、みんなで共有する形には絶対にならない。全部机の上にあげないとダメなんですよ。とりあえずそこからなんでしょうね。


山小屋のこれからについて

二朗正直言うと、一般論として「山小屋」をこれからどうしていけばいいのかわからないんです。

もちろん自分の山小屋については、かなり明確な理想像はあります。自然と調和したデザイン性や環境技術を備えることや、学術機関やメディア、行政機関も巻き込んで、自然環境についてより踏み込んで学んだり、今日話したようなことを共有できるような新しい形の基地になれれば良いと思う。「人と自然の創造的な関係性を築いていく」基地です。そのために、まずは多くの人に愛される居心地の良い「たまり場」でありたいですね。

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二朗しかし、現実的に山小屋業界という全体的な単位でどうすればいいか、簡単には答えられません。高度経済成長期にかけて無計画に作られた施設もあれば、重要な場所だけど経営の苦しい零細小屋、自動車でアクセスできるホテルのような小屋もある。山小屋の定義自体が曖昧で、一概に山小屋はどうあるべきというのが捉えづらい状況です。

地域や個人ごとにバラバラな価値観を擦り合わせて行ったり、エコロジーの方向に舵を切る必要があるし、もっと合理的で持続可能な視野を持たないといけないと思いますけど、今の状況から、シンプルに次の未来を描いていくことができるのか…。どうなんですかね、逆に聞きたいです。

春山:僕は二朗さん、圭さんもそうだけど、山小屋の現場を守っている二代目って貴重だと思うんですよね。だからこそ、独善的で全然いいと思うので、自分の思うベストな山小屋をつくっていいんじゃないかなと。全体に歩調を合わせる必要はないと思います。これがひとつの解になるという未来を感じさせる方向性をつくるとが大事だと思いますね。

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二朗本当にそう思います。みんな、ギュウギュウの山小屋やテン場でどれだけ本当に自然を楽しめているのかって考えてしまうんです。仕組みを変えていかないと、山の楽しさも持続可能な形で発展しないと思います。

春山:そうですね。微力ではありますが、私たちYAMAPもお力になれたらと思います。今回はどうもありがとうございました。

FIN.

written by @﨑村昂立
photo by @goando @﨑村昂立

追記:三俣山荘の伊藤圭さんにお話を伺った記事もアップしました。